素晴らしいチームカラー

中西一朗

 レスリングのルールが、スタンドだけに変ってもう二十年以上になる。アマレスというと「ああ守りと攻めに分けて試合をするあのスポーツですか」とグランドが一般の人々の興味を、特別に誘うスポーツであった。スタンドの得意な日本はルールの変更を歓迎したが、ルールの単調化は人気をなくし、選手も張合いを失ったのではないかと今の選手を気の毒に思う。昭和三十年代には大きな試合はスポーツ紙は勿論一般誌にも予想が出て、かなり関心の持たれたスポーツだった。我々三十六年卒業の者は丁度その人気の頂点にあったので、その時代の新聞の切抜きを見たりすると懐かしい思いをする。私の学年には八田、内藤、五十嵐、早川、大野、最首、橋本、佐藤の諸君がいて、特に八田、内藤、五十嵐の三君は高校時代から、常に優勝を争う一流選手だったので、大学入学後一年生からレギュラーで活躍、我々の学年が三年、四年になった時には、下級生にも堀口、梅澤君など優秀な選手が控えていたこともあり、優勝を狙うようになるだろうと誰もが思っていた。ところが八田、梅澤はアメリカへ留学、五十嵐、内藤は怪我の為上級生の時には殆んど活躍できず、四年の時には戦力も衰えて、二部転落の憂目にあうとは思ってもいなかった。

 下級生の頃はリーグ戦でも上位にあり、三十二年のリーグ戦では当時急に力をつけて来ていた日大に十対一で勝っている。この時代はライト迄は各級二人ずつで、メンバー交換には二人の選手の下に、どちらにでも替りに出場できるポイント・ゲッターを置き、相手のメンバーを見ながら最終メンバーをきめる仕組みになっていた。その試合は私が一年の時で、その年は膝の怪我で練習もできず調子も悪かった。試合には出られる位の状態であったので、計量にはわざと包帯を巻いて行った。これは相手を惑わす作戦であって、出て来ないと相手は思い、私の処へポイント・ゲッターの今井さんが入ると読んで来た。日大のポイント・ゲッター松原は今井さんを避けるつもりでだったのだ。しかし塾はその裏をかいて、私がそのままメンバーに残り、今井さんが松原と対戦して破り、重量級で一点取られただけで、四十年代に入って黄金時代を築いた日大を、大差で破ることができた。試合中我々のベンチは大いに沸いて笑いに溢れていた。よほどしゃくに障ったのか日大ベンチから、一人の男が我々の処へどなり込んで来て「何んでそんなに人の顔を見て笑っているんだ!」と怒って来た時はびっくりしてしまった。

 ところが秋のトーナメントでまたまた日大と当り、今度は逆に八対三で大敗した。今度は廣川監督が怒ってしまい、翌日は日曜日であったにもかかわらず、日吉で一日中練習ということになってしまった。私も八点取られたうちの一人であったが、怪我でろくに練習してないとは言え、負ける様な相手ではないのに負けた恥しさと、一年生という気易さから、翌日の大事な練習を休んでしまった。月曜に練習に行った時は、たぶん昨日休んだので物凄く叱られるだろう、練習でもしぼられるのではないかと覚悟して蝮谷へ行った。ところが誰からも休んだことを咎められずにほっとした。慶応義塾レスリング部の良いところは、伝統的に下級生に雑用をさせたり、訳もなく練習でしぼったりしないことで、私自身怪我で活躍できなかった分を、翌年のリーグ戦では全勝して報いている。あの時、練習をさぼったことを咎められて、練習でしぼられていたりしたら、翌年の活躍はあるいはなかったかも知れない。今でも、青春時代をチームカラーのすばらしい慶応義塾のレスリング部で、高校・大学生活を送れたことに大変感謝している。

(昭和36年卒)

『慶応義塾體育會レスリング部五十年史』(昭和61年刊行)より