世界選手権大会への参加の想い出

島村保行

 トルコのイスタンブール市で、六月一日より三日間開催される一九五七年度世界選手権大会を目指しての国内選考試合でバンタム級の代表となり、八田団長のもとに八階級八選手の一員として本大会に参加しました。此の大会はメルボルンオリンピックの翌年にあたりましたが、レスリングを国技として居るトルコの開催である事から、オリンピックの優勝者はもとより、世界の強豪がオリンピックに引続いての参加でありました。

 今振返って見ますと、初の海外遠征、初の国際試合への参加である私としては、諸先輩に引張られながら若さ丸出しの参加でありました。
 大会はイスタンブール市内での、三万人余りの観客を収容するサッカー場で、夕方の四時から途中休憩を挟みよるの十時迄、夜間照明の中で行われましたが、レストランの壁にはその時代の優勝者の顔写真が掛けられて居る程の国技とあって、連日満員でありその声援は大きく、観客が僅かの青山レスリング会館で試合をしておりました私にとっては、その違いに圧倒されました。

 又、トルコ国民はその歴史からソ連を憎み、日本に親近感を抱いて居り、自国選手の次に日本選手に大きな声援をし、その凄さは、大会終了翌日に市街を案内するからと宿泊先のホテルに見知らぬ人が何人も押掛けて来て、街に出ると人が寄って来て日本選手を中心の輪になって歩く事になり、更には首都アンカラ等数ヶ所で行った対抗試合でも、多くの観客と試合後の盛大な歓迎会にも示され、強い感銘を受けました。
 試合の結果は三位でありましたが、大会の参加に加え、途中各国に立寄り、人と名所旧蹟に接することができたのは、今となって意義深いものを感じて居ります。

 余談になりますがその当時の日本では、洗いが簡単で乾きが早くノーアイロンのナイロンYシャツが流行して居り、私もそれを持って行きましたが、トルコにはまだなく、大会関係者が名産と交換してくれとホテルの部屋迄迫って来て、トイレに逃込んだ事も想い出になりました。

 卒業後二十五年を経た今、レスリング部に在籍して居たからこそ得たこの大会への参加を初めとして、楽しかった事、苦しかった事が、数多く想い出として残って居りますが、数多くの先輩、友人を得ました事に深く感謝して居ります。

 しかし、一方、何としても悲しい事は、モン(江中一男)の他界であります。最上級生のときリーグ戦で、勝ち点をあげられずに共に苦しみ、苦しんでばかり居てもと寄席に行き、気分転換を図りその効果か、その直後の試合ではモンが活躍し同点となっての最終試合で、ドン(河村邦博)が自分の体重を三階級も上廻る級での出場にも拘らず、一本背負いで勝ち、勝ち点をあげみんなで狂喜した事、その時の同期カメ(木村)、ナメ(浦山)、ドン(河村)、モン(江中)、ゴジ(島村)、ヤツコ(黒瀬)、一太(後藤)、ヴィロン(森)、ロク(鈴木)、ニタ(久保)、ムサ(武蔵)、変な外人(白洲)とは、年に数回の会合を持ち、度々電話なりで連絡をとり合って居ますが、話題となることは、我々同期の中で、卒業後コーチ、監督として部に尽くしたモンの事であります。
 此の誌上を借りて、モンのご冥福を御祈りさせて戴きます。

(昭和35年卒)

『慶応義塾體育會レスリング部五十年史』(昭和61年刊行)より