西浦合宿と全日本選手権大会

菅野 侃

国鉄西浦駅からバスで三十分、新興の海水浴場、風光明媚、環境は申し分なしの筈である西浦荘に到着、ところがどう間違ったのか部屋の照明はピンク、風呂は狭くて中々順番が来ない、おまけに晩飯はカレーライスだけ!これでは全日本学生選手権を狙う部員の士気向上は望むべくもない、四年生全員集合、鳩首緊急会議善後策を検討中に下級生がドヤドヤと、宿替を約束、福島、伊藤両マネージャーを中心に手分けして宿探しに奔走、清風旅館を確保して早速宿替えを完了、三十三年の夏合宿は前代未聞の幕開けでスタートした。喰い物の怖さを皆が改めて感じたことと、計画には弱いが対症療法は早い四年生一同であったと思うし、たまの同期会では必ず話題の中心になる。

 それでは、どうして我等同期生がレスリングを始めたかなどを中心にご紹介する。
 辻啓之は、既に部員だった美澤を訪ねて練習を見ていた処、星先輩より見学の態度が悪い!鍛え直してやるから明日から練習に来いと厳命され怖々入部した経緯やら、試合中自らのバック投げで脳震盪で気絶など沢山のエピソードを有する。美澤麟太郎通称チーター、現在西独国籍の松田利彦とのスタンド練習では、時間の半分は差手争いでお互い離さない、ミスター握力であった。並木禧和は慶應高校野球部主将を務めていたが、団体と個人の勝利感が両立しないことと、八田一朗氏の著書に啓発されて入部、試合前の減量は十kgが通常であった。福島正三は西浦合宿の時鬼瓦と一同が命名した女性にヨットに誘われ危うく遭難しそうになったり、常に話題の中心人物で新入生シゴキに卓越した能力を有した。伊藤文弥、学連のボスとしてリーグ戦の組合せ等を牛耳り、片や有名校からの人買稼業をし縁の下の力持として手腕を発揮、相撲の中尾三郎を今風に言うと兼務出向させリーグ戦に活用したアイディアの持主である。入部は流行のボディビルに憧れ、バランスよく肉体を鍛えるのが動機であった。伊藤勉は柔かい独特の技で人気者であったが、残念ながら二年で退部した。

 小生は別当先輩と同じ下宿の縁から部には六年お世話になり、最後の全日本学生選手権を獲得でき、連盟会長で部長の永沢先生から賞状を頂いたのがよき想い出である。

 西浦の合宿で特筆すべきことがある。それは地方合宿には異例と言える程大勢の先輩に来て頂いたことである。そのお陰で廣川監督指導の下に部員一同練度が上り、九月の全日本学生選手権で部史上二度目の三名のチャンピオンの誕生という輝かしい成績に繋がったものと、誌上にて想起し深く感謝致す次第である。

(昭和34年卒)

『慶応義塾體育會レスリング部五十年史』(昭和61年刊行)より