高校レスリング部創設時代の想い出

小久保宣

 昭和二十六年春、前年に創部されたレスリング部に畑中、鈴木、矢嶋、西山、廣瀬、有田と私の七名(全員二年生)が入部した。当時のアマチュアスポーツ界での花形といえば、体操、水泳そしてレスリングであり、体協も力を入れていたこともあって、レスリングの国際試合は結構盛んだった。そのために海外遠征もままあり、私などは格闘技そのものが好きだというよりも、外国に行きたいからという理由で入部したようなことを覚えている。(この頃は、まだ外貨を割り当ててもらうのが難しく、簡単には外国へ行けない時代だった。)


 もちろん強くなければ海外も夢物語に終ってしまうが、蝮谷の道場はその夢をかなえてくれるような気がした。全部員でやっと二桁の数であったが、大学生に交っての練習は日増しに我々を鍛え上げてくれた。翌年のヘルシンキオリンピックで銀メダリストになった北野先輩をはじめ、全日本級の諸先輩方が外国から取り入れた新しい技を、私達もすぐマスターすることができた。それを他校に先がけて実践して行ったので、新入部員もわずかな期間で実力を上げることができた。当然基礎訓練も十分やったし、合宿では立てなくなるぐらいまで練習をやり辛いことも多かった。だがそれよりも試合のたびに強くなることを、はっきりと感じとることができたので、むしろ練習を楽しく思うことが多くなった。


 自分達に力がついてくれば目標も定まってくる。”日本一・打倒新潟”これが私達の合い言葉になっていった。当時の高校レスリング界は、新潟高校、新潟商業、明訓高校、北越商業など新潟勢が圧倒的に強く、全国大会でも団体戦、個人戦とも、常にこれらの高校で毎年優勝を独占していた。
 そのレスリング王国新潟の牙城を崩さんと臨んだ八月の全国高校選手権だったが、打倒新潟どころか早々に敗退。まだまだ力不足だったことをおもい知らされた。世の中そんなに甘くはない。しかし、57kg級で主将の三枝さんが、62kg級で私が慶應勢として初めて優勝を果たしたことで、チームの意気も復活、以後の練習ではますます熱が入っていった。


 翌年の春には三学級を通じ新入生多数が入り、部員数は三倍にふくれあがった。部の活気は出たが、同時に練習法の改善も迫られた。けれども眞田監督、宮本コーチが細部にわたっていろいろと考え、指導して下さったので、主将となった私も今までのように十分に練習に取り組むことができた。
 お二方とも兄貴的な存在で、部の統制を計りながらも、伸び伸びと練習させてくれたことは本当に有難かった。また、新入生の中にも有望な者が結構いて、おかげで上級生も刺激を受けて、全体のレベルも上っていった。 


”今年こそ新潟を倒す”と臨んだ七月の高校選手権大会、新潟高と対戦し惜敗会場を後にした。だがチャンスは再び、そしてすぐに訪れた。十月に行われた仙台国体に神奈川県代表として畑中悟朗、矢嶋賢三、鈴木徹、小久保昌、小久保宣が法政二高の二人と共に選ばれた。準決勝で千葉県を五対二で破り、決勝の相手はやはり新潟。が、この時の私達は、それまでとは違っていたと思う。私の弟を除けば、みんな打倒新潟のラストチャンス。みんな先手を取って終始押しまくった。そして、四対三。遂に打倒新潟成る。スコアの上では接線だったが、意識の中では皆”完勝”だった。慶應中心のメンバーだったから、思いもまたひとしおだった。
 これは私達だけの力ではなかった。私生活でもお世話になった眞田監督をはじめ、大学の諸先輩方。部活動を応援していただいた部長の山口先生。有形、無形の強力を惜しまなかった同輩や後輩諸氏。みんなの力で勝ちとった喜びだ。
 そして、現役の諸君、君等も”積極的な全員参加”の姿勢をもって、再び全国制覇の喜びを、勝ち得てくれたらと思う。

(昭和32年卒)

『慶応義塾體育會レスリング部五十年史』(昭和61年刊行)より