昭和二十七年春、高校時代を野球で明け暮らした私は、学業の遅れを取り戻すのに要した一年間の苦痛はあっさりと忘れて、頭より体を動かす魅力に勝てず、今度は格闘技で体力の限界を試したいと、大それた考えを起したのです。どうせやるなら自分に適した競技を気持の良い部でやりたいものだと、空手、ボクシング、剣道、柔道等各部を廻って歩きました。そんな訳で蝮谷の道場も何度となく窓の外にかじりついてのぞきこんでいました。今考えても何とも珍妙な姿だったと思います。中ではこの頃変なチビがぶら下がっているが、やる気がありそうなら引っぱりこめと相談していたそうで、或る日加藤さんからどうせ見るなら中でどうだと聲をかけられました。厳しい中にも和気藹々とした雰囲気に惹かれていた私は、二つ返事で入部の決心をしたのです。初心者への手ほどきは親切丁寧でしたし、良い部に入ったと嬉しかったのですが、体の堅い真田さんの稽古丈は痛くて閉口したものです。後に自分が同じ役廻りになって辻君等にこぼされて、歴史は繰返すだなあと実感した次第です。
又、別当さんが、他の人と一風変わった理論と考え方で指導して呉れたのも、強く印象に残っています。何しろ「ブリッジなんかインテリには似つかわしくない、そんな体勢になるなら負けた方がましだ、ならぬ様に技を磨け」という具合でしたから・・・・・。対照的に川本さんの岩のような体と力と真剣さに圧倒されました。柔軟性とスピードに欠けても体力に聊か自信のあった私は、練習で音を上げる事はありませんでしたが、その後勧誘した学友達が半月と保たず辞めた事を考えると、中明と共に三強を誇った当時の諸先輩方の力と技を支えた練習は、合理的であると同時に量もさすがのものだったと思うのです。
入部してすぐに同じクラスに星君がいるのが判り驚きました。温厚誠実な人柄から当時の私はレスリングを全く想像しなかったからです。重量級に近かった彼は矢鱈と試合に登用され、大きな対戦相手にフウフウ言っていました。二年の夏肋骨を痛めた私を慰めてくれた彼が、試合で首を傷つけ全身不随となって入院し、今度は私が見舞いに行くめぐり合わせになりました。幸い全治して医者に禁じられたのにレスリングへの思い断ちがたく、再び部生活を送ったのも何かの因縁かと思います。体をかばっての練習しか出来ぬのに、温かく受入れてくれた先輩、仲間の有難さを今も噛みしめているのです。鹿児島出身の西園さんは良く相撲部に力を貸してはポイントゲッターとなっていました。大きな体に優しい心のゾノさんには、しつっこくフォールをとりにゆくレスリングよりも、相撲の方が性に合っていたんじゃないかななどと勝手な想像をして、大人の風格と昔飲ませて貰った家業の芋酎の強烈な味と香りを懐しく思い出します。本名よりタンクと言った方が通りが良い木村君は、渾名が体より心を現わしている豪気な男で、負けん気から、練習上りの風呂場でカナダライ一杯の水を呑干すといったエピソードの持主です。風呂場と言えば道場からの往復に一々着替えは面倒と、バスタオル一枚の猛者が多かったものです。今程女子学生ははびこっておらず、特に蝮谷は別天地という気があったせいですが、しかしフリチンでテニスを眺める者が居ては穏当でない。某日照井先生に望見され代表が大目玉を喰ったのも、今となっては懐かしい出来事です。魚田君は力の人で試合ぶりもパワーを前面に出すスタイルでした。どんな強敵にも力で挑み、自分よりも高くさし上げるのを理想としていたのではないかと言った具合でした。しかし内面は実にシャイで、それを見せぬ様偽悪的言辞を弄する癖は今も続いています。Kさんの愛称で親しまれる田中君は、色黒くも濃く目大きく、加えて押しとネバリと度胸のレスで活躍しました。この特徴を生かして女性にもそこそこもてたし、卒業後の仕事でも持味をいかんなく発揮しています。高校時代から名の売れていたのは主将をつとめた大澤君だけでした。バネとスピードで軽量級を席捲したものです。
同期の者の事を書き連ねて来ましたが、入部した頃は高校も全盛でした。小久保君兄弟、鈴木、矢嶋君等実力も充分で年は若くてもレスの経験は豊富、大いに教えて貰いました。遊びの方も鎌倉の小久保邸をベースに、父君のダッヂを乗り廻しては湘南地方をのし歩いたり、考えてみると「太陽の季節」の石原兄弟と全く同世代、小説程ではなくても青春を謳歌していた訳です。
試合の方はどうだったかと言うと、当時のメーンエベント関東学生リーグでは、中央に勝つと明治に負けると言った塩梅で、どうしても両者に一度に勝てず切歯扼腕という状態でした。しかし二十九年の早慶戦九−〇完勝の感激は、加藤主将以下で廻し飲んだ優勝盃の美酒の味と共に脳裡に刻み込まれています。二十九年には世界選手権が新設の千駄ヶ谷の都体育館で開かれ、埃の青山会館を見慣れた目には何とも華やかに映ったものです。フライ級の日本代表は勿論北野さんでした。ソ連のメコキシュイリという巨漢と、飛燕の様な北野さんの姿が妙に印象的です。
青山の〈いづみや〉の話など、思い出は尽きないのですが、与えられた枚数を越してしまいましたので、この辺で筆を置かせていただきます。
(昭和31年卒)
『慶応義塾體育會レスリング部五十年史』(昭和61年刊行)より