二十九年の記録

栗原良治

 二十九年度は大学高校合わせて三十三名の部員がいたが、他校の充実に比べ入学難から重量級に人材不足の感があった。しかし高校から外川、小久保弟等が加わり小粒乍ら安定した実力を持ち、努力すればリーグ優勝も不可能とは思えなかった。また長年部を指導して下さった菊間監督が辞され、二十六年の主将廣川先輩が監督になられた。


 シーズン緒戦の新人戦でフライの今井、ライトの小久保弟、ミドルの有田が奮闘よく二位となった。五月には一日から九日まで、マニラでアジア大会があり、フライに北野先輩が出場、優勝を確約されたがフィリッピンのファビラに一敗して銀メダルになった。五月十三日世界選手権日本代表決定試合が行われ、塾現役では五名が出場資格を得て参加した。最終予選だけに好試合の連続だったが、フライで田賀が明治の強豪楓を破り二位になったのが目覚しく、加藤も好調で二位に食込み補欠となったが、大澤、田中、西園は善戦したが敗退した。結局代表になったのは北野先輩だけで五月二十二日から東京都体育館での本番は、世界十五ヶ国の強豪が白熱した激戦を繰りひろげ文字通り最高の試合だったが、この中で北野先輩はフライでソ連のツァルカラマニーゼを判定で退け、フィリッピンのファビラを二分四十二秒体固めに勝ち、決勝でトルコのアグバシュと対戦、優勢に試合を進めたがグランドでブリッジさせられ判定に破れ二位になったのは残念だったが、そのファイティングスピリットと技のタイミング・スピード等、部員一同のお手本として学ぶものが多かった。


 リーグ戦は明・中が強く、慶早立とは差があると云われていたが、北野前主将に学んだ速攻と技は漸次身を結び、殊に軽量級の進歩著しく着実にポイントを上げた。対中戦の前にレギュラー合宿を行い、最高のコンディションで臨んだがフライ級で躓き惜敗した。立教に快勝、明治にはフライの田賀投固めの快勝に奮い立ち、着実に得点を重ねウェルターに出た加藤が体重のハンデ克服、よく攻めて三ポイント差の判定で勝って強豪明治を退け、早稲田には完勝、結果は慶明中三校三勝一敗となったが、勝数が明治(27)、慶応(26)、中央(23)の順で二位になった。我々が少い持駒でこの成績を上げることができたのは、廣川監督、北野・竹内両コーチの指導力、在京諸先輩の熱心な御指導御援助の賜と深く感謝しています。

(昭和30年卒)

『慶応義塾體育會レスリング部五十年史』(昭和61年刊行)より