七人の侍

酒井和彦

 吾々二十九年組は七名おりますが、何れも個性豊かな連中ばかり、特筆すべきは吾々が一年生で入部した頃から部員も充実し、常にリーグAクラスに位置し、塾レスリング部として、最も充実していた時代かと思います。従って同期の仲間にも北野祐秀(ヘルシンキ・オリンピック銀メダリスト)、川本睛紀(二十八年全日本ライト級優勝)、竹内壽朗(二十八年全日本ウェルター級優勝)、瀧川雄三(二十八年全日本バンタム級四位)と四名のランキング選手がいる、活気に満ちた年次でした。


 吾々の時代は丁度綱町時代から日吉時代への移動期で、両道場を経験した数少い年次でもあります。但し綱町時代は短かったので、思い出の多くは日吉に集中しています。日吉での楽しい思い出は、何と云っても激しい練習のあと汗を流す風呂場での先刻迄の緊張とはがらりと変って、上級生・下級生の垣根が取りはらわれたひとときでした。そこで交される話題は到底紙面での公表は差控えざるを得ませんが、今日も一日が終ったという実感があり、オーバーな表現をすれば、この練習後の風呂が楽しみで練習に通ったといっても過言ではありませんでした。風呂場につきものの話題でしょうが、前も隠さず堂々と風呂場を闊歩する川本君、竹内君の偉大さには、毎日のことながら周りの者思わず息を飲むこと屡屡で、正に風呂場の主的存在でした。また、レスリング部の傳統でしょうか、道場から風呂場までの僅かな道のりを一糸まとわず、タオルを片手に歩く者が多く、或る時蝮谷の向う側のテニスコートで開催中の確か早慶戦だったと思いますが・・・・・今程ではないにしても女子学生の観戦も多かった中、風呂場への往き帰り、いつものスタイルで眺めているのを折悪しく照井体育会主事の目にとまり、後刻責任者の呼出し、大目玉をくった事もあり、学内関係のマネージャーをしていた同期の三亀君は大変だった様でした。然し乍らその後風呂場通いのスタイルが確別改ったという記憶もありません。


 戦後二度目の渡米選手団には、塾より別当正恵、川本晴紀、北野祐秀の三名が派遣されましたが、帰国後初めて日吉道場に現れた川本君が、当時アメリカでヒット中だった『モナ・リザ』を口ずさみ出したのには、凡そ英語とは余りにも遠き間柄であった人だけに、周りの連中皆大笑いした等、可笑しい思い出となっております。
 体育会どこの部でも同様でしょうが、思い出多いのは東京を離れた地方の夏合宿で、一年の夏は新潟でしたが、どうしても一年生は練習で可愛がられる頻度多く、練習が終り合宿所であるお寺の本堂へ帰ってくると、欲も得もなく足腰も立たぬ状態で横になって休息するのですが、夕方寺の門前にある銭湯へ行くと真田君の練習で痛めた首が女湯の出入口の方向にはスムースに廻るのにあきれたり、当時夜九時頃まで営業していた小林百貨店で、当時としては珍らしい女性ヌードの写真展を見て胸を躍らせたこと、まさに青春ありというところです。


 練習嫌いで試合巧者と云えば何と云っても竹内君でしょう。この人程あまり練習をせず試合になったら勝負強い人も珍らしい。特に大物喰いが極立っていた。吾々仲間では一番日常生活が不透明で、試合近くになっても連絡が取れずマネージャー泣かせあったが、前日には道場に現れると云うパターンで、下級生の頃から大人的風格があり、この人が先輩に叱られるのを一度も見たことがない。
 試合巧者と云えば瀧川君。一年生の秋、三亀君と二人、或る日前ぶれもなく綱町の道場に入ってきた。当時は入部してきたと云うよりは菊間監督、西谷さんあたりがどこからか拾ってきたと云った方が当を得ているのだが・・・・・二人をみた時こんな真面目な学究肌のタイプの人間が、レスリング部へよくも入ってきたものだと感心した。今日に至るも両君より確たる入部動機など、それらしきことを聞いたことがない。瀧川君のデビューは、まさに彗星の如くという表現がピッタリと思う。怖いもの知らずというか、リーグ戦では恐らく当時の主将鈴木正博さんは当馬に使ったのではないかと思われるのだが、早明中のレギュラー選手に一歩も引かず、相当相手を痛めつける位の荒々しい勝ちっぷりで、一気にレギュラー・ポジションを確得してしまった。本人はこういう表現を最も嫌うことではあるが・・・・・自分ではスマートな選手と自画自賛・・・・・選手というよりは力士と云った感じがした。吾々同期一番の健啖家である。


 三亀君とは上級生になってから私と二人でマネージャーを兼務、専ら私が学連関係、彼が塾内関係を切廻し、特に最終年次の松坂鐘紡工場合宿、大垣市でのデモンストレーションの成功は彼の裏方としての努力によるところ大であった。然るに大垣の旅館での下級生の女中乱暴事件で、私共々帳場で女主人の前で土下座同様平身低頭させられたのは誠に気の毒という他はなかった。
 最後に吾々仲間が卒業後もまとまっているのは、何と云っても三定六代目当主真田雄君の存在が大きい。少くとも彼だけは東京永住の宿命にあり、自家営業ということもあり、同期の仲間が仕事の関係で各地を転々としていても、仲間の近況は各々が彼のところへ連絡し合って、また彼もマメに吾々に傳えてくれることには感謝している。

(昭和29年卒)

『慶応義塾體育會レスリング部五十年史』(昭和61年刊行)より