昭和二十七年七月十九日、第十五回オリンピック・ヘルシンキ大会の開会式が始り熱戦の幕が切って落とされた。
開会式のスタジアムは一九三六年第十一回ベルリン大会についで、一九四〇年に開催される予定であったが、第二次大戦で中止、前年に建てられたスタジアムは十三年間この日を待っていたことになる。
私達レスリング選手は、明二十日から始まる試合に備え入場式には参加せず、観客席でその雰囲気を味わい、大きな感動と明日からの健闘を誓い合ったことを思い出す。
当時の日記を読みかえしてみると、試合開始当日七月二十日(日)朝六時三十分起床、計量に行く、全員パス、計量後試合順を決める抽選で私は一番を引く。フライ級(52kg)から開始されるのでオリンピックの皮切りの第一戦に出場することになった。これは縁起がいいと自分に暗示をかけ、とにかく第一戦は必ず勝つ、ただし、リラックス!! リラックス!!と心に言い聞かせている。
第一戦の結果は前年度世界選手権三位の、スエーデンのヨハンソン選手。立上りからタックルに次ぐタックルでポイントを重ね、大差の判定勝に破り大いに自信をつけた。第二、三、四戦と連続フォール勝ちで順調に駒を進めたが、第五戦でつまづいた。
前年まで米国遠征のみで、世界選手権にも出られなかった我々としては、中近東や欧州勢は初めての経験であったので、とにかく一戦終れば明日の選手の試合を見て研究すると言った、付焼刃もいいところで、全く余裕のない戦いの連続だった。
第五戦の相手はイランのモラガセミ選手だと監督に言われ、彼の試合を見て方策を練った。勝てる自信がついた。
翌日、自信を持ってマットに上った。ところが上って来た相手は、トルコのゲミチ選手であった。驚いた。少しは彼の試合を見ていたが、何も方策は練っていない。攻めも守りもチグハグとなり、持てるものも出し切れないままに終ってしまい、結果は判定敗け。
試合を振りかえり、あのときああやればよかった、こうやればよかったと悔やまれることばかり。だが、どのような事由があれ、事実負けは負け、これがやり直しのきかない実力の世界であることを痛感した一戦であった。
イランのモラガセミ選手対トルコのゲミチ選手は、モラガセミ選手の判定勝ち、従って私とモラガセミ選手との対戦が事実上の決勝戦となった。
私がフォール勝ちをすれば金メダルと言う道が残された一戦であったが、判定勝ちとなったため銀メダルにとどまってしまった。
この決勝戦のはじまる十五分位前であったか、イランの放送席に呼ばれ、イラン国民に何かメッセージをと懇望され、「私は日本人としてこの一戦に全力を尽くして戦うが、勝負はともかく、この一戦が両国の親善になればと願っている」といった様なことを放送したのも思い出の一つである。
モラガセミ選手とは、その後ローマ大会で八年振りの再開を喜び合ったが、ながいイ・イ戦争で今彼はどうしているのかと、心から心配している。
日本勢はバンタムの石井庄八選手の金メダルをトップに、全員入賞の快挙をなしとげた。特に石井選手の金メダルは、日本選手団唯一のものとなり当時の話題を独占した。その石井選手も若くして病に倒れ今はもういない。惜しい人をなくした。
毎会のオリンピック大会には、必ずといって良い程大スターの話題が出る。ヘルシンキ大会でもそうであった。
第二次大戦後、再び認められた日本とドイツの参加、またロシアとして大正元年のストックホルム大会参加以降出場できなかったソビエトが、鉄のカーテンの向うから四十年振りに姿を現わした。選手村には入らずにソ連領から試合場入りをするといった変則ではあったが、フィンランドと陸つづきである立地条件もあいまって、参加のキッカケとなったのだろう。
本当の戦後を感じた大会であった。世界の大国の四十年振りの参加、しかも予想外のレベルの高さが、アメリカのライバルとして大会を大きく色どったのも、大きな話題であった。
大スターもいた。“人間機関車”チェコのザトペックである。五千米、一万米に優勝、勢いに乗ってマラソンでも新記録で金メダル。ザトペック夫人も女子ヤリ投げに優勝するといった、夫婦で四個の金メダルが話題をさらった。
“バルト海の乙女”といわれるヘルシンキには、いたるところに噴水がある。人々は善意に満ち、明るく落ちついた北欧の国である。
湖の国。白夜の国。
私にとって、“オリンピックの聖地ヘルシンキ”。
思い出はいつまでもつきない。
(昭和29年卒)
『慶応義塾體育會レスリング部五十年史』(昭和61年刊行)より