三年間の満足りた青春

武藤清助

 レスリング部五十年を考えると、私達はほんとうに僅かな年月でしたが楽しく有意義な青春時代を送らせて頂いたことを思い出します。私と弟(小島靜男)は兄(一夫)の指導で入部、永澤邦男先生、新館正國先生(相撲部部長)を始め菊間先輩、渡辺 先輩他多数の先輩に御指導御高配を賜わりました。
 さて編集委員から戦後期を代表してと御依頼がありましたので、早速兄に連絡をとり、その兄の手紙より記させて頂きます。


 兄武藤一夫(21年卒)によると『新人時代はまだ戦前であり、日吉グランド入口の小さな競技部のロッカールームみたいな跡の道場で、菊間先輩に手とり足とりレスリングのイロハを教えこまれ、部は渡辺先輩以下多士済々、とても楽しい日々を送っておりました。しかし戦後復員、復興、復部迄の経過は小生だけ考えてもその心境には複雑なものがあります。何しろ部員といっても小生に水落君二人、戦死から九死に一生を得て運よく帰国し、又運動を始めるまでには、先ず先輩友人の心温まる励ましがあったからだと思います。まず菊間先輩渡辺先輩が部復活に多大な貢献をされ、そしてもう一人、戦後のレスリング部再建で一番忘れられない人として、同期生であった相撲部マネージャー出口芳治君の名が上ります。正式体育会入会、戦後のリーグ参加に盡力、相撲部の宮本君、谷口君、三原君他、柔道部から阿部君、山中君等参加を得て、格好つけられたのは最初に出口君あってのことと思っております。部生活を通じ、師、友人、先輩、後輩沢山の人達とのふれ合い励ましを得たおかげで、これまでの人生に良い影響を與えて下さったことも多く、今は感謝の念で一杯です』


 さて私の青春は、戦後間もない昭和二十二年四月から二十五年三月迄の、三田レスリング道場で丸三年に亘る練習に明け暮れた時期でした。一部リーグ戦、二部、入替戦、東西対抗戦、全日本選手権、日米戦に挑んだことが、ついこの間の様に脳裏に浮んでくる今日此頃です。その頃の三田の道場は旧柔道場で、マットがつぎはぎだらけ、中味が出て来そうな粗末なものでした。風呂場がなく普通は銭湯に行き、たまには道場のすみの方で、ドラム缶に水を入れ薪木で沸かして入ったこともありました。
 又、道場の二階が合宿所になって居り、山中、安達両先輩が住人で、教室が近く文武両道に励む環境にあったわけです。
 夏休みには部員全員が千葉館山で合宿です。その日課は早朝ランニング、午前・午後二回の練習で鍛えられました。合宿終了時には夏休みの終り頃に行われる全日本選手権、秋のリーグ戦を迎えるために、すでに技と根性のかたまりとなっていました。
 監督は渡辺先輩で練習に厳しい方でしたが、反面やさしいあたたかみのある先輩でした。二十三年、二十四年の間に二部に転落の折には全員丸坊主になったことも懐かしい思出です。その甲斐あって、次回はすぐ一部に復帰するということもありました。 


 又、二十四年の夏の頃早慶で北海道遠征を行ったことがあります。この件で出発前に永澤部長先生に御連絡に伺った際、先生は遠征はよろしいが興行師が関係していないかお尋ねになり、よく気をつけなさいと云われました。終戦から四年たっておりましたが、食糧も今日の様な豊富な時代でない頃でした。始めに札幌劇場で早慶対抗戦を見せることになりました。参加者は高橋、鈴木正、中谷、別當、川本、北野、西谷、武藤(清)、武藤(静)、而し中味は各級の人数が揃わず、慶應の部員が早稲田に入り、早稲田の部員が慶應に出たりしての早慶戦で、興行向きに派手な技を出し合うものでした。次に美唄鉱で働く人の家族及札幌進駐軍家族の慰問では、皆さんに喜ばれました。進駐軍家族の慰問には試合後当時としては珍しい御馳走を出して貰って、皆が喜んでいたことを思出します。しかし最後の函館での試合は余り宣伝されなかったらしく、観客の入りが少なく、その翌日の朝食が出されなかった記憶があります。その時は永澤先生の御注意が身に泌みて分った次第です。早稲田の風間先輩も同行され、部員がマットのカバーを持参しながらの遠征で、汽車の中も大へんであった記憶もあります。しかし最後に秋田迄行って、早稲田の先輩で酒造会社(太平山)経営の小玉さんの処に御厄介になり、お酒を飲放題御馳走になり帰京したよい思出もあります。三十六年前のことですので年月氏名等がはっきり思い出せなく、間違いの点もあるかと思います。多々御許し下さい。今後の慶應レスリング部の益々の発展を心からお祈り致します。

(昭和25年卒)

『慶応義塾體育會レスリング部五十年史』(昭和61年刊行)より