復興時代の思い出

山中文夫

 第二次大戦の終った翌年私は復学の為に上京しましたが、当時既に米軍の指令により学校柔道が禁止されており、己むを得ず旧柔道部は飯塚国三郎師範の道場をお借りして練習を続けていました。
 而し乍ら、若い我々としては、体育会での部活動が出来ないのが残念でもあり、又当時塾レスリングの状況が次のようなものであったので、諸先輩の御同意を得た上で、レスリング部を復活させ、正式に体育会に加盟させる努力をすることにいたしました。即ち当時、戦前からレスリングを続けて来られた水落寛一郎先輩が、唯一の現役のクラブ員として活躍されておられたので、水落先輩を中心にして旧柔道部から私をはじめ、高橋卓、阿部英之輔が先づ参加、又相撲部からは仲小路和男(当時・三原和男)、児玉武男の諸兄の應援も得更に戦前のレスリングの諸先輩の御指導と御援助を戴いて、ようやく部としての体制も整ったのを機に体育会に申請、直ちに承認され永澤邦男先生を部長として、ここに正式に体育会レスリング部として、塾体育会の一員になれたのでした。
 此の間菊間先輩をはじめ、戸張、松内兄弟、中井、水木、入江、渡辺(秀夫)、安次富、桝井、武藤(一)等々、戦前の錚々たる諸先輩の熱心なコーチと御援助により着着と実力をつけ、更に柔道部から水谷兄弟、成毛兄弟、鈴木正博等の諸兄の参加を得て、対外試合もできる体制となって参りました。


 当時我々は住むところも無かったので、綱町の柔道部の二階にあった更衣室を合宿所として、此所に渡辺秀夫先輩(故人)をコーチとして、水落、安達、大市、私の五人が、明日の食べ物も有るか無いかの時代に、合宿生活をしていました。食事は無いといったら本当にスッカラカンで、全く無くなりますが、何も食べずでも練習だけは力一杯やっていたので、今から思うとどこからあのようなエネルギーが、湧いて来たのだろうかと、不思議な思いがする次第です。
 練習は、ハダシに海水パンツと云うすがたで、また練習のための道具としては鉄アレーが一組と、菊間先輩が苦心して入手されたという、古い七米四方のマットを綱町の柔道場に持込んで、これをみんなで毎日修理(キャンパスが弱っていたので毎日どこかが破けてしまうため)しながら使ったものですが、三割位はキャンパスが無く、中のアンコがボロボロのむき出しのままの状態で、これに頭を突っ込んだりすれば、全く狼男の様にフェルトのボロボロが汗まみれの顔や体にくっついて、いやもうチクチク、ボソボソと気持ちの悪いの悪くないの、とても見られたものではありませんでした。しかしこのような事にもめげず、朝昼夕とみんな全くよく練習したものでした。
 高橋卓君のタフネス振り、安達君のねばり強さ、水落さんの鉄アレー捌き、廣川卓君の背中の廣さ等々、すべてが今でもありありと目のあたりに浮びます。
 他校にも出稽古に行き、明治の村田さんともお互いに技の研究をした事なども、楽しかった思い出の一つです。また、レスリングの普及のため、部の全員で九州迄行き、熊本をはじめ各地を巡って柔道の試合の傍、レスリングの模範試合を行ったりもしたものでした。


 其のうちに、先づオール早慶戦をはじめとして、六大学リーグ、東西対抗、全日本選手権大会等が相次いで開催されるようになり、急速にレスリングの普及が進んで参りました。
 我々が卒業したあとでは、国際試合も行われるようになって、塾からも武藤清助君、北野祐秀君等、優秀な選手が輩出し、戦後の慶應義塾レスリング部の全盛時代を築いて呉れました。
 今、創生期の模様を振返ってみると、みんな本当にレスリングを愛し且つ育てようとして、寝ても覚めても練習に明け暮れた、青春時代の一途な気持ちが思い出されて、思わず顔がほころびます。
 此處に、創部五十周年記念事業の委員の呼掛けに応えて、私達の現役時代の思い出を、思いつくままにあれこれと書いてみました。
 最後に委員のみなさんの御尽力に感謝するとともに、現役のみなさんの御健闘を、切にお祈りします。

(昭和22年卒)

『慶応義塾體育會レスリング部五十年史』(昭和61年刊行)より