「思い出の記」

水落寛一郎

 昭和十六年入学した私は、体育会各部の練習を見学して廻り、中学で経験した剣道とはあまり関係のないレスリングを選びました。約二年の兵役をはさんで二十二年九月に卒業するまで在部しました。殺伐とした時代でしたが、レスリング部で友情とファイトに満ちた青春を過ごせたことを有難く、また誇りに思っています。
 十六年当時の我国レスリング界は、中央に日本アマチュアレスリング協会があり、会長は日本窒素の野口社長で、社員の熊野さんがよく学生の面倒を見てくれました。シーズンあけの部のコンペにもよく顔を出してくれました。試合前の計量に野口さんのお宅の秤を使ったこともありました。学生の組織として関東学生レスリング連盟があり、リーグ戦は春秋二回、協会主催の全日本選手権、学生の新人選手権などが行われておりました。リーグ戦では常に一部の二位か三位、残念乍ら優勝はできませんでしたが、二部に転落するようなこともありませんでした。 


 当時の部長は永澤先生で主将は菊間さん。菊間さんは端正重厚な風貌で堂々としておられ学生とは思えませんでした。菊間さんの卒業後渡辺秀夫さんが主将になられ、マネージャーは渡辺隆さんでした。部員は学部に水木、安次富、稲垣、桝井、大塚、辻、廣瀬の諸兄、予科には福島、倉岡、奥田、武藤、吉野の皆さんで、時々相撲部の田内主将、出口、宮本、三原の諸兄が加わり、またシーズンオフにはラグビー部のフォワードも練習に来ました。道場は日吉の陸上競技場の東南にあった平家、バラック建の雑品倉庫の半分を仕切って借りた粗末なものでした。練習用具としてはコンクリートで手製の亜鈴とダンぺル、エキスパンダ―、握力器、跳縄があるだけでした。近くに水道がなく、少し離れた管理人の鈴木さんのお宅まで、琺瑯の水差を持って水を貰いに行くのが私と武藤さんの仕事でした。毎日の練習は三田から学部生が到着するのを待って始められ、綱島温泉まで軽く駆足で往復してからブリッヂ、腹筋や足腰のトレーニング、柔軟体操の後グランド・スタンドの練習でした。実に明るい和やかな雰囲気でしたが内容はきつく、筋肉が張って便所でしゃがめないようなこともよくありました。ギブアップを考えたことも再三ありましたが、練習が終って帰るとき渡辺主将がにっこりして、「ご苦労さん、また明日ね」と言葉をかけられるのが励みになり、最後まで頑張ってしまいました。練習時の服装は、肩紐のあるユニホームを着ている人は少く、水泳パンツのベルトを外したものを着用上半身は裸で、靴は無く全員はだしのままでした。練習が終ると一丘越えて蝮谷の風呂場まで行って汚れを落としました。


 大東亜戦争が始り戦局が悪化するにつれて、スポーツに打込むことや学生でいる事自体に、何か後ろめたい疑問を感ずるような事もありましたが、級友から「君達が今リーグ戦に勝つことが日本がアメリカに勝つ事に繋がるのだ」と激励され感激しました。
 レスリングの人気はそれ程大衆的ではありませんでしたが、根強いファン層もあり終り頃九段の軍人会館の試合等は常に満員の盛況でした。
 時局は押しつまっていましたが、酒だけは何とかして飲んでおり、三田のエビスの二階で特別にビールを出して貰って、よく飲みよく歌いました。何しろ酒が始ると年下の者から歌うことになっており、大いに苦労しました。後年私がミズオンチと云われるようになったのは、この頃の後遺症だと思います。歌の上手な人が多く渡辺さんの〈隅田川〉、出口さんの〈酒は涙か〉、園田さんの〈雀がチュウ〉〈私のラバさん〉踊りなど圧巻でした。
 夏の合宿は千葉県北條の木村屋旅館で、近くの水産学校の柔道場を借りました。相撲部の田内さん、安藤さん、出口さん、小針さんも参加され、また途中で早稲田の道明(弟)さん、植木さんも来られ楽しい合宿でした。


 昭和十八年に徴兵猶予の制度が廃止され、各校の部員の多くが入隊し、レスリングも外来スポーツとして中止に至りました。
 終戦の時私は帝都防衛軍の歩兵見習士官でしたが、終戦直後編成された臨時憲兵隊に編入されて了いました。廃墟の街を歩いて、当時学生主事をされていた永澤先生を三田にお訪ねした時、先生から臨時憲兵隊等存続できる情勢ではないから早く復学手續をとった方が良いとおすすめ頂きました。その言葉どおり九月に臨時憲兵隊は解散、私は一旦名古屋の家に帰って、十月に上京復学しました。入隊までいた自由ヶ丘の下宿龍雲荘に転込みましたが、勿論賄なしの外食券生活で、冬に向って薪炭の割当もなく厳しい生活でした。間もない頃、東横線自由ヶ丘の改札口で菊間さんに会いました。渡辺さんが元気に復員された話をしたら「渡辺は戦死と聞いたがいきていたか」と大変な喜びようでした。早速自由ヶ丘にあった自宅に連れて行かれ、ママさんにも初めてお目にかかり、貴重品のウヰスキーをご馳走になりました。床の間の本立に法律の本が並べられ、菊間さんは時代が変ったから法律の勉強を始めるのだと大変な意気込でした。


 学生服と陸海軍の将校服が入乱れていた三田山上で、相撲部の三原君に出会いました。無事を喜び合って話しているうちに、今こそスポーツが必要だということになり、早速綱町の柔道場に行き、埃だらけの畳の上でレスリングをやって見ました。結構やれそうだということになり、部員を集めることにしました。
 進駐軍の命令で学校での柔剣道が禁止され、受動部員を相撲とレスリングで時節が来るまで預かることになり、豊澤の飯塚先生の道場で柔道部の羽鳥先輩から御依頼の話がありました。
 その頃早稲田でも岸体育館で練習を始めたと聞き、早速出掛けて行き合同練習をやりました。中央大学で重量挙げをやっていた松江君が、レスリングを始めて熱心に通って来ていました。
 日吉は進駐軍に接収され立入禁止になっていました。道場は雑品類と共に焼却処分され、マットとキャンパスは切られ、フェルトは固りになって道場の少し上にあったチャペルの物置に押込まれていると聞き、英語が得意な山中君がトラックで引取りに行き、うまく綱町まで持って来ることができました。古畳の上にフェルトを廣げ、寄せ集め繋ぎ合せたキャンパスをかぶせて稽古をしましたが、全身汗と埃とフェルトの屑で汚れ、全く始末の悪い状態でした。


戦後九人のチームを揃えるだけの部員を集めるのに苦労しましたが、一番切実なのは飲食の問題でした。少量の配給の酒と、間違えば目が潰れるというカストリ、マッカリなど飲み漁りましたが、一番よく飲んだのは渡辺さんが勤先の三共から入手する薬用アルコールで、番茶で薄めて少量の甘味料や琥珀散を加えて酒らしくしたものでした。他には橙皮チンキを蒸留した苦くて酸っぱいやつ、ひどい時には苦味チンキをなめたこともありました。食料にも苦労しました。各大学が復活に歩み始め、学連再建の打合せが時々もたれましたが、議事が進まず六時頃になると心配なのは、外食券食堂に間に合うかどうかと云うことでした。何しろ食いはぐれれば翌朝まで完全な欠食でした。何時頃から山中、安達、大市君と二階の脱衣所に住込み配給を受けることにしました。仲間同志の自炊生活も仲仲風流でしたが、配給は日増しに悪くなり、米軍放出の乾燥芋や青豆
ポークビーンズの缶詰等始末が悪く、通学生の辨当を出して貰い、大鍋に配給品と共にぶち込んで雑炊にして分けあって食べました。また多少お金がある時は、そのお金を等分に分け神田の闇市へ行き闇食料を漁りました。甘藷を煮てドロドロにしたやつをしゃもじで皿に垂直に盛り上げたもの、デラックスなものでは、正体不明の肉をビール瓶で叩き伸ばして幾重にも衣をつけて怪しげな油で揚げたトンカツ等でした。
 電車賃しか無くなった時、窮余の一策で近くの先輩を訪問御馳走になったこともあります。発案者は山中君だったと思います。最大の被害者は松内則浩先輩の新家庭で、すき焼きの御馳走で家中の食料を食べ尽くして了いました。慙愧と感謝の念に耐えません。永澤先生の御自宅に部の状況を報告に上ると、いつも畑の野菜等頂きました。監督の渡辺さんも合宿生活に加われたことがありましたが、辺さんの貯金通帳は何時も真白でした。食糧難の最も深刻な頃は、駅のホームで殆どの人がしゃがみこんでいる状態で、「こんな時代によくレスリングなんか」と云われましたが、レスリングに精神を集中できたことが、肉体の活力を維持してくれたと思います。時々川越や蕨に買出しに出掛けました。腹はへっても力自慢が多く、三原君が甘藷を一杯詰込んだリュックを身体の前と後につけて、駅の柱につかまりながらウーンと立上った時には駅員も並居る人も唖然としていました。
 山中君が発熱し、一時渡辺さんのお宅に預かって頂いたことがあり、この時献身的に介抱したのが渡辺さんの妹さんお喜美やんが、現在の山中夫人であります。渡辺家は家中でレスリング部の連中の面倒を見て下さり、洗濯までして頂きました。


 戦後の想出に九州遠征があります。引率者は日大柔道部OBで熊本出身の広岡弘明先生、監督は渡辺さん、私、山中、水谷、安達、飯塚、成毛兄弟にボクシング部から二人、それに内原拓殖訓練所の見るから猛者の二人が加わりました。握り飯を抱えてごった返しの汽車で西下、熊本は街中に「柔道・レスリング・ボクシングの決死的大試合」とポスターが張出されていてびっくり、いろいろ抗議してレスリングとボクシングの模範試合を見せ柔道は地元と親善試合を行いました。熊本、人吉、八代、松代と廻りましたが、土地柄か見る物が他にない為か大入満員でした。途中、後にプロレスになった拓大OBの木村八段が同行しましたが、宿で成毛君に将棋でいじめられ考え込んでいた姿が目に浮びます。
 進駐軍の将校クラブで慰問試合をやったこともあります。夫人や婦人将校達に人気があり、終ってサンドヰッチやチョコレートの接待があり、ポケットに詰込んで帰るのが楽しみでした。バンカースクラブでの時、中央の松江君に頼まれ無名の新人石井庄八君と試合をし、体重差もあり押しまくられて技を出せずに判定で負けました。その後石井君は頭角を現したのですが、云いわけのできない不覚であったと思います。練習試合であっても、他校の新人に負けると相手に自信を持たせて了うことをつくづく感じました。
 試合で特に憶えているのは優勝を賭けた早慶戦で相手は荒井君、中央の講堂にリングを組んで行いましたが、スタンドの劣勢が禍し、再三フォールチャンスをロープ外に逃げられて判定で負け、山中君が善戦したのに一点差に泣きました。マットの上で〈丘の上〉をと誓った夢も儚いものでした。私は勝つ事以外にも素晴らしい体験をレスリングから得ました。併し闘う以上勝つべきです。優勝してマットの上で歌う〈丘の上〉を聞ける日のあることを念願として待ち続けるものであります。

(昭和22年卒)

『慶応義塾體育會レスリング部五十年史』(昭和61年刊行)より