私とレスリング部

水木 泰

 個人的なことですが、昭和十二年の東京府下の中学(旧制)柔道大会で、私の中学が準決勝迄勝ち進んだからだと思いますが、塾を受験するに当たり、どういう経緯か知りませんが、当時の塾の柔道部のマネージャーの方より、十三年二月十一日(当時の紀元節)に他の志願者と共に体格検査するからと案内を受けました。ところがあ、当時は高等学校を志望しておりまして、日が重なって片方しか受験できませんでした。当時の東京の中学生としては、たとえ都落ちしても旧制高等学校への憧れは強く、父母とも口論の末、塾への入学が決った次第です。当初柔道部に入部しようと思っておりましたが、学校を代表する選手になりたいというわけで、蝮谷の道場を覗いてみたところ、先輩同輩を含めて、大館、赤塚、羽鳥、藤川、飛田、山崎、下野川等諸兄の稽古をみて、之は話にならないと、ギブアップした次第です。特に藤川君は亡父の中学の後輩の関係上、中学の会報に赤塚さんとの決戦の模様が常に載っており、印象深いものがありました。


 さて私とレスリングの関係ですが、之はもう菊間さんを除いて語ることは出来ません。昭和十三年の夏休み、当時新大阪ホテルに滞在していた父を訪ねるべく、当時の東海道線の「つばめ」の車中で同席したのが縁であります。菊間先輩は日本代表の一員として、関西で行われた日独対抗試合に出る為に乗車していたわけです。当時の先輩の出立ちは、白絣に袴で、私に「君すまぬが席を変ってくれないか、彼等煙草が嫌いなんだ」と、そこから二人の会話が始まったわけです。当時私は、「風間」「菊間」という名前は知っておりましたが、レスリングが具体的にどんなものか、又体育会の組織がどうなっているかも知らないまま、菊間さんの話術にひっかかって、体重別ということに魅力を感じレスリング部に入部した次第です。九月から稽古開始ということなので道場なるところに行ってみると、そこは右翼の大立物、頭山満翁の御子息秀三先生がやっておられる、渋谷の天行会の道場にまるめたマットを拡げてやるというわけで、実際のところガッカリしたものです。当時の私は体育会でないから道場は持てない位までは判ったが、何故天行会でということは最後まで菊間さんに質問しませんでした。わかったのはきわめて近年のことで、同じゴルフクラブの仲間の頭山乙次郎さんが秀三先生の末弟で、或る時期菊間さんと同じクラスだったことを乙次郎先輩に聞き、天行会の世話になった経緯を知った次第で、私には或る面で物事を穿鑿しないというか、納得出来ない事も自分さえ我慢すればよい事なら避けて通る性格があるのだという事を五十年近くなって確かめた次第です。


 ところで、記憶にある当時の部員は、バンタムでは辻、益満、あとから武藤、水落、フェザーで渡辺(秀)、安次富、松内、福島、水木、ライト、稲葉、あとから鈴森、ウェルター、ミドルで菊間、稲垣、マネージャーとしては村山、渡辺キンちゃん等と思うが、常時必ず来るのは益満、安次富、渡辺(秀)、菊間、稲垣、小生それにマネージャー二人ではなかったかと思う。このうち私と同級は渡辺(秀)、稲垣、松内、安次富であったが、稲垣はフィリッピンで戦死し、渡辺(秀)も戦後病歿した。自分の事はわからないが、個性的な選手は十六年三月卒業された稲葉先輩で、今ではあり得ないと思うが首攻め一本槍で、当時の強豪早稲田の道明(兄)も明治の金(鐘)も、最後は稲葉さんの首攻めでフォールされた。渡辺(秀)も不思議な存在で、非常に女性的な性格がベースにありながら、試合となると別人の如き闘争心をわかし、之といって極め手はなかったがなんだかんだと押さえ込んだ。ただ身体は極めて硬かった。我々は十五人の相撲の早慶戦には駆出されたが、彼は頼まれると嫌といえない性格で、拳闘の早慶戦に迄出て、相手を投げ飛ばして反則敗けをした。私と同じフェザーだったので、彼の身体の硬さは、早稲田のフェザーの名選手蛸の様な賀来選手の柔らかさと比較して懐かしく思出される。道場の場所の問題もあり、先述の通り休む部員もいたが稽古は猛烈を極め、私も肩と手首を練習中に骨折した。菊間さんや稲葉さんにしごかれ、逆に廣瀬(同級・戦後病歿)、武藤、水落君等を絞ったものだ。安次富ともよく練習した、彼の髭づらでこすられるとたまらなかった。試合では、特に菊間さんが卒業されてからは重い方でどうしても選手が不足するので、柔道部からは飛田、桝井、園田、相撲部からは田内、仲小路(旧姓三原)等の諸君の応援を得た。申しおくれたが、部長は後に塾長になられた永澤先生で重厚な部長であられた。


 前述の通りレスリング部は体育会の外郭団体であったので部費もないに等しく、他部の応援がないと、道場の問題、合宿等不都合が多く、何となく相撲部との関係が深くなっていった。之は元相撲部の山野井マネージャーの男気、それをそっくり引継いだ名越正八マネージャーとレスリングの村山マネージャーのアシスタントをやってた渡辺キンちゃん(昭和十七年卒戦後病歿)の好関係を無視することは出来ない。
 相撲部の合宿には渡辺(秀)や私は必ず参加したし、相撲部からも我々の合宿に学生横綱田内はじめ殆ど全員参加してくれた。又柔道部からは飛田、桝井、園田も必ず参加してくれた。合宿は相撲部は山中山荘、我々は使えないので館山の木村屋旅館を根城として安房水産学校の剣道場にマットを持込んでやった。


 冒頭申上げたように菊間さんには公私に亘りお世話になり、先輩のアパートにもよく泊った。又千葉県旭町のお宅でも過ごさして貰った。菊間さんも小生宅によく来られ、死んだ両親ともよく呑み語りした。菊間さんは当時の我々からみると天衣無縫な生き方をされており、運動選手にあるまじきチェンスモーカーであり、酒もよく呑まれたが、それなりに締めくくりのある独特の人生観をもっておられ、渡辺(秀)や小生はよく叱られたが、常識を超えた物の考え方には、ついていけないものを感じながらついていったものだ。レスリング部はおわかりの通りアウトサイダーの小さな部であったが、菊間さんという魅力ある大人物がおられたので、謂わばインテリ派というべき熊倉先輩、手束先輩をはじめ、荒武者の飛田、田内、園田等が稽古はともかく何かというと集ったものだ。桝井も暇があれば必ず稽古に来てくれた。


 当時レスリング界のボスは早稲田出身の八田兄弟で、八田一朗さんは陸軍中尉の軍服を着てハッパをかけに来たものだ。当時は早明慶が上位であとは懸離れて専修立教が続き、関西では関学、関大がやっていた。関学とは定期戦をやっていたが負けた記憶はない。私達にとって忘れられないのは十四年秋に早稲田を破った事で、その感激は今も忘れる事はできない。
 菊間さんが十六年十二月に卒業された後は、渡辺(秀)とキンちゃんと私で部を引張っていった様な気がする。一方国は唯ひたすら戦争に突入してゆく中で、米の調達も大仕事だった。色々と工夫をしたがこれはどの部も同じであろう。
 私達は、体育会の部員で唯道場に顔を出すだけというのでなく、部員全員が相撲部同様出場選手であったので、今から見ると非科学的ではあったが、遊び半分の稽古はしたことがなかった。 私にとって忘れられないことの中に、昭和十三年秋、陸軍の戸山学校で今でいう国体競技みたいなものがあり、早稲田の無敵風間選手等と共に、模範試合をしたことでその年の九月に入部した私が何故駆出されたのか、菊間さんは憶えておられるだろうか。


 顧みて、私にとってレスリング部とは何であったのかといわれると、それは塾生活そのもので、相撲部の連中と共に、私の人生観に大きな影響を与えてくれたということができる。レスリング部に入ったお陰で銭湯なるものを知ったし、菊間さんという大人物を知り得たし、名越正八先輩や田内貢三郎という親友も得た。
 この前死んだ園田が「お前みたいに学生時代からイエス、ノーがはっきりしない奴はいなかったし、いいにくい事をづけづけいう奴が今は欲しいんだよ」とよくいったが自分の事はよくわからない。ただ自分の素質なりに精一杯の稽古をしたので何の悔いもない。そして田内に送られて十八年九月九日、東京駅から三重の航空隊に向った。


〈後記〉

 海軍では私は数少ない夜間戦闘機の操縦員であった為、出撃の割に最後迄生き残る事が出来ましたが、戦後は海外生活が長くレスリング部と縁が切れてしまいましたが現在は多少時間も出来、十八年の体育会の連中とは毎月交詢社その他で歓談したりゴルフをやっております。又毎年四月に十八年体育会の総会を山食でやっていますが、年一回の総会に松内君が出るだけで実に淋しい。松内君のお兄さんは確か十四年卒と思いますが、日本を代表する名選手でした。五十九年度の卒業生送別会に出ましたが、時代の違う人ばかりで自分の年を痛感しました。もう胸襟を開いて語れる人は菊間さん、手束さんしかいないのでしょうか。

(昭和18年卒)

『慶応義塾體育會レスリング部五十年史』(昭和61年刊行)より