教え手の居ない生徒たちに!!
−熊倉正彌君などの想い出−

西野重正

 全くお附合いのなかった菊間大兄に、ヒョンな機会にふん捕まりズルズルとレスリングの世界へ引摺り込まれたのは、多分昭和九年の終り頃かと思うが、偏えに菊間さんの人懐こい人柄に魅せられたものと覚えている。
 其の頃の私は一時期スポーツから遠ざかって居たが、スポーツそのものは勿論嫌いどころではなく、小学校では女子もやって居た位差サッカーの盛んな大正の末頃、東京の師範学校の付属から、最近は時々全国大会にも出場する程に強くなった本郷中学(今は高校)を経て、更に大学豫科時代まで球を蹴りつづけてた。
 サッカーはラグビーとまた違う衝突、激突の多い競技で、聊か大袈裟だが全身の筋骨すべて傷だらけと成り、三田の塾正門の坂道も登りづらくなって、遂にキング・オブ・スポーツと永い間教えられて来た此のサッカーと、おさらばをしなければならなくなった。


 さて突然レスリングへの変身にあたり、先づ親の反対にブツカリ、余り見た目にも品の好いとは云えない犬の掴み合いとも見まがうアンな運動は、身の将来にも影響するから考え直したらとか、父親からは然らば学費云々と嚇かされたりもした。然し始めてみたら地味ではあるが極めて味わい深いもので、忽ちレスリングの虜になって了ったが、歴史が浅いもの丈けに本式に教えて呉れる人も、指導書なども見当たらず、最近のような数多いテクニックもない無勝手流と云うか自己流の暗闇運転の練習が始まった。
 つまり私達は教えて呉れる師の居ない―先生の居ない学校の低学年の生徒みたいな存在であったとご想像願い度い。だが塾にはその先生に、他の何者にも優り得る貴重とも申すべき御仁―チームメイトが出現した。
 熊倉正彌君その人である。熊倉君は一時健康を害してマットから離れて居た頃、只休まずに難しい外国のレスリングの本を、丸善か神田で苦心の末入手、翻訳して一々「アッチを向け、腕をこうひねろ、其の儘うしろに倒れて・・・」と云う風に、正に原書の写真と訳文との首っ引き。原書は当時―一九三〇年時代、米国での第一人者ジミイ・ロンドンの著、プロかアマかは分らないが写真も沢山入っていた。
 熊倉君は多分府立一中出身で、塾卒業後は就職試験で難関中の難関であった朝日新聞社に入社された程の才覚の持ち主でもあり、何やら『土地・資本・利子』論などと云う小難しいブックをいつも小脇に持ち歩いていた。それを指して、彼は少々ヒンダリ〈左〉だなどと云う輩も居たが、そんなことはどうでもよいことだった。序で乍ら、同君のご家業はトテモ私達の寄り附けそうもなかった、築地の中国高級料亭・芳蘭亭であり、今も御盛業中だが熊倉君が後継ぎをやって居ると云う話は聞かない。
 何れにしろ、人真似・自己流の塾レスリングに、業や型、闘い方などを見事に自力導入し?そして先発組みの早・明両大学に、兎に角追い付いて行けるまでに持っていった恩人だと、今も想いそのご功績に対して感謝を忘れない。


 ジミイ・ロンドン。そんなアメリカの大選手は勿論いまは居ないだろう。だがレスリングの話が出る度に、ジミイ・ロンドンにもまた直接コーチをして貰ったことがあるような錯覚に似たようなものを覚える五十年後の昨今である。
 更に熊倉君を助け一緒に此の面のご協力をいただいた入江歓治君も、五十周年式典の折り、実に四十七・八年振りに達者なお姿に接しられた。何事によらず初期とか黎明期には斯うした影の努力が秘められて居るものだが、私はこれらの努力を皆さんと共に誇り度い。と共に、此の頃の世間の一部で云われているスポーツともレジャーとも附かない「運動観」は、先輩・現役・指導者共々反省してみて、皆んなウント強くなろう。 
 さて終りに、レスリングの古い先輩も、癌死を除けば総じて御長命と拝する。私も古稀をいくつか越しているが、未だ常勤の身にあるのもレスリングのお陰だと信じている。そしてもう一度生れ替ることが出来たら、スポーツは矢張りレスリングを選ぶだろう。
 家では車キチの子は歳も大きくなったから別として、小学生の孫は骨格も好く体全体の均整もとれているので、何とかレスリングをさせて見たいと思って居るが、夫んな事を云ったりするのは歳のせいだろうか。

 (昭和12年卒)

『慶応義塾體育會レスリング部五十年史』(昭和61年刊行)より